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2018年10月7日日曜日

築地から豊洲へ

築地から豊洲への移転、築地市場が83年の歴史に幕を閉じました。
関連する記事や記憶を徒然なるままに・・。

○マグロのセリ(2014年2月)
観光名所の1つとなっていた築地マグロのセリ。中野先輩にご案内いただきながら築地場内潜入、間近で見学したときの様子、所狭しとたくさんのマグロが横たわっていたことが思い起こされます。

セリの様子①
セリの様子②












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○ターレの大移動2018年10月07日 12時30分;日刊スポーツ記事)

日本の台所と呼ばれた築地市場(東京都中央区)が83年の歴史に幕を閉じて、一夜明けた7日、大規模な豊洲新市場(江東区)への引っ越し作業が始まった。午前5時、ターレ(電動運搬車)が一斉に築地市場から出発。築地大橋など、まだ一般車両に解放されていない環状2号線約2キロを約10分かけて通行し、豊洲市場に到着した。ターレが1列に何台も連なって大移動する様子は、壮観。同7時からはフォークリフトが移動した。ターレは全部で約2100台、フォークリフトは約500台。豊洲市場が開場する11日までに、引っ越しを完了させる。

ターレ2100台大移動 築地から豊洲へ引っ越し
ターレの大移動(撮影・垰建太氏)












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○豊洲移転に伴い閉店した吉野家「築地1号店」食通たちが愛したワケ(2018年10月7日 6時30分 オリコン)

 全国の“吉牛”ファンから聖地として親しまれてきた吉野家「築地1号店」が築地市場の豊洲移転に伴い昨日6日、閉店した。当日は朝から長蛇の列ができ、SNS上にも「たくさんお世話になりました」「長い間、ご苦労様でした!」と感謝のコメントが相次いだ。11日には「豊洲市場店」として新たなスタートをきるが、閉店を惜しむ声は多い。1947年の開店から59年の長きにわたり市場で働く人々の胃袋を満たし、近年では、観光客も多数訪れていた築地の名店の軌跡を追った。
築地壱号店










■食への強いこだわりを持った客の胃袋をつかんだ「築地1号店」

 ファンの間ではよく知られた話しだが、吉野家「築地1号店」には他店にはない特徴がある。ひとつは、壁に設置された木箱の箸入れ。わずか15席、小さなコの字型カウンターだけの手狭な店内を効率よく使うための工夫で、吉野家「築地1号店」の歴史を刻むシンボルにもなっている。そして、もうひとつ。同店ならではの“特殊オーダー(裏メニュー)”だ。
 具材と白米を黄金バランスで盛った「並盛」に対し、つゆが多めの「ツユダク」や玉ねぎの割合を増やす「ネギダク」などは一部他店でも対応しているが、吉野家「築地1号店」はさらに細かいオーダーも可能となっている。
 「タレや玉ねぎの量を減らす“ツユヌキ”“ネギヌキ”のほか、牛肉の脂身の量を増減させる“トロダク”“トロヌキ”に、ご飯少なめの“かるいの”などがあります。最もユニークなものは“ニクシタ”でしょうか」(吉野家広報)
 “ニクシタ”は一見すると白米だけの丼で、箸を入れ食べ進めると、丼の底からたっぷりのタレと牛肉が顔を出す。白米と牛肉の盛りつける順番を逆にした裏中の裏メニューだ。白米にタレがかかっていないため、牛丼でひとくち、付け合わせの漬物と白米でひとくち、とさまざまな楽しみ方ができる。
 客の細かなオーダーに応じるのは、マニュアル対応が基本のチェーン店としては異例のことだ。それには理由がある。日本最大の水産物卸売市場として知られる築地市場には、舌の肥えた人々が多い。そんな「食への強いこだわりを持った客」の要望に応えるため“特殊オーダー”は始まった。

■ 震災、戦災からの再開 高級フードながら客足途切れず
 社歴によると吉野家の誕生は1899年に遡る。料亭で働いていた創業者・松田栄吉が、当時はしりだった「牛めし」に目をつけ、日本橋にあった魚市場に店を構えた。魚河岸で働く職人たちに腹いっぱい食べてもらうため、当時高価であった牛肉とごはんを「有田焼の丼」で提供したのが始まりという。
 その後、関東大震災(1923年)による魚市場の築地移転に伴い、吉野家も移転。東京大空襲(1945年)で店舗を焼失するも、戦後すぐに屋台で商売を始め、1947年に築地市場で店舗を再開する。これが、現在の吉野家「築地1号店」だ。屋号の「吉野家」は、築地店を再開させた初代社長の松田瑞穂が命名した。
 「松田瑞穂が大阪の吉野町の出身であったことが由来と言われていますが、奈良の吉野の桜が好きだった松田栄吉が、吉野をとって吉野家という説もあります」(吉野家広報)
 当時の牛丼は鰻重と並ぶ高級フードにも関わらず客足が絶えず、その味を求めて多くの客で賑わったという。そんな中、松田瑞穂は24時間営業という新たなスタイルを打ち出す。市場の朝は早い。一般的に早朝といわれる4~6時の時間帯には、すでに人々がせわしなく行き交っている。作業は海産物が搬入される前日夜から始まっているのだ。市場関係者にとって24時間営業は、大きな喜びをもって歓迎されたことだろう。
 「松田瑞穂は研究熱心でした。客数を増やすため、様々な試行錯誤をしていたと言われています」(前出・広報担当者)

■ 「豊洲に移っても、市場関係者の皆様に美味しい牛丼を提供したい」
 現在の吉野家に通ずる“はやい・うまい、牛丼”も松田瑞穂の功による。それまで、高級な食事だった牛丼を安価で提供するため、具材として入っていた焼き豆腐や筍をやめ、牛肉と玉ねぎだけのシンプルな丼にかえた。さらに、メニューは牛丼のみになった。
 「1985年頃までは、酒のツマミとして、焼き豆腐なども出していました。牛丼に使用していた有田焼の丼は既製品だったため蓋が付いており、この蓋をお皿代わりにして、提供していました」(前出・広報担当者)
 味や使用する調理器具の改良を重ね、1968年に2号店となる吉野家「新橋店」をオープンすると、約10年で200店舗を突破。市場の人々に愛された味は“国民食”へと成長していった。その後「吉野家」としては、経営不信による倒産、米国のBSE問題に端を発した牛丼販売休止など、幾多の危機に直面するも、その都度、復活を遂げてきた。これら92年にわたる「吉野家」の歴史を見守り続けた吉野家「築地1号店」。全国の“吉牛”ファンのみならず、同社社員にとっても特別な想いがあるに違いない。担当者に閉店についての想いをたずねると、これまでの感謝と新たな誓いを口にした。
 「吉野家は、築地の市場関係者の皆様に育てられました。豊洲に移っても、築地同様に市場関係者の皆様に美味しい牛丼を提供したいと考えております。吉野家「豊洲市場店」でも“うまい、やすい、はやい”を磨き続けます」
 なお、吉野家「豊洲市場店」は11日から開店し吉野家「築地1号店」の名物“特殊オーダー”も引き継がれるという。


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(仙台生活554日)





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