日本社会における博士号取得の価値はどこにあるのか?
日本の科学とイノベーション、再生への道;博士しか相手にされない欧米、博士を必要としていない日本、を読んでの雑感メモ
https://tech.nikkeibp.co.jp/dm/atcl/column/15/032700107/050800006/?P=1
研究者として最初のパスポートととなる博士号、よく足の裏の米粒と言われます。
取らないと気になるし、かといって取っても食らべれたものではない(笑)
欧米や日本との博士号取得者に対する扱いの違いを認知しておく必要はありますが、ここは日本なので、日本で博士号取得者がモチベーションを下げずに進むための処世術?みたいなものを少し考えてみます。
博士号取得者は当然ながらにその分野の専門家ですが、こと就職活動の段階になると分野によっては専門性を活かせるポストが少ないことや逆に一般企業など採用する側からすると新卒にしては年齢が高いこと、また扱いずらさなどの理由から敬遠され、なかなか苦戦します(世界が注目する研究成果を出している場合を除く)。
採用する側の立場として、会社等の“歯車”として与えられた仕事をすればOKとの方針での人材採用であれば、まぁ・・当然そうなるのでしょう。
ただ、今の時代、人手不足がはじまり雇用環境が改善されてきているとはいえ、自分なりの考え方を持って、しっかり表現しながら所属のメンバーと力を合わせて成果に結びつけていく人材がどこであっても求められてきています(これは博士号の有無にかかわらない;博士号を持っていなくても優秀な人はたくさんいる)。
博士号取得者の強みはどこにあるのか?
長年その分野の研究をしてきたことで専門性を有することは言うまでもありません。
ただ、時代が進む中で求められてくる社会の要求が変わってくることも知らなくてはなりません。
博士号取得の価値をそのプロセスに着目すると、博士論文を作成する際には積み上げてきた研究成果をまとめ上げ、1つのストーリーとして完成させます。
実はこの時に培った全体感というか“俯瞰力”を持って、作品(博士論文)を作り上げたという経験は大きくて、目には見えないけれどもその作品と同じくらいに価値のあるものと思うのです。
この力を社会のあらゆる場面に適用し、持っている技術(研究力)を駆使して社会貢献に繋げていくという柔軟な考え方、1つの考え方に過ぎませんが、このことに気づけるかどうかは今の日本社会では大事なのではないかなぁ・・。
研究者の本質は知的好奇心にあり、その探究にありますが、まずは社会に身を置いて食べていける状態にしていかなければならないという切実な現状がありますからね。
逆説的ですが、専門分野にだけすがるなら、博士の価値は単なるその専門の研究だけができる歯車としてのものでしかないのであって、使う側と使われる側のミスマッチが起きる大きな理由と言えるのかもしれません。
(仙台生活550日)
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